
・・・

・・・

・・・ぴえん💦

猪木死んじゃったね・・・
2022年10月1日。元プロレスラーのアントニオ猪木さんがお亡くなりになりました。79歳でした。
今回は猪木さんの追憶記事として「アントニオ猪木の名言」を紹介しつつご冥福をお祈りしたいと思います。
アントニオ猪木ヒストリー

私まだ子供だから猪木さんの歴史あまり知らないのよね。

まあ 実は僕も世代的に、猪木の試合みてたのは、猪木が引退間近の90年代からなんだよね。

・・・オレも。猪木をはじめて知ったのはテレビ番組とかなんだ。
あと漫画の「浦安鉄筋家族」とかで見てたなぁ。
そのあとプロレスもみるようになったなぁ。

そうだよね。
世代によったら「アゴがながくてとにかく面白いおじさん!」ってイメージかも⁉
とゆーことで少しだけ猪木さんの幼少期からプロレスラーになるまでの歴史を紹介します。
アントニオ猪木(本名:猪木寛至)は1943年、猪木家の10人兄弟の9番目として横浜に生まれます。
当時は太平洋戦争。
5歳の時に父親が亡くなり、一番上の兄も戦場で命を落としたため、一緒に過ごした記憶があまりないらしいです。
猪木家は石炭商を営んでおり、かなり羽振りもよかった時期もありました。
しかし戦後、日本のエネルギーは石炭から石油へと移行します。
とうぜん猪木家の事業は右肩下がりです。
猪木家の三男、兄・寿一氏の主導で「狭い日本を捨て、新天地でひと旗揚げる」というブラジルへの移民を計画します。
中学生だった猪木氏も、ブラジルの移民についていきます。
希望を抱き、フェリーと列車を乗り継ぎサンパウロ郊外の農園に到着した猪木一家を待っていたのは、地獄の一丁目。
移民費用を盾に、朝5時から夕方5時まで、コーヒー豆を収穫する過酷な労働が1年半続く奴隷生活。
逃げ出した他の移民一家が、問答無用で射殺されるという、恐ろしい環境でした。
そして1年半の“奴隷”契約が解け、一家は自営の農業者になります。
落花生が大当たりとなり、猪木家は農業者として成功するのでした。
17才になった猪木は、青果市場で働きながら、砲丸投げで活躍してました。
そこに力道山がスカウトにきます。
「おい、裸になれ」
そうはなち、猪木の上半身をみると
「よし、おれと一緒に日本にこい!」
猪木のプロレスラー人生がはじまりました。

ぴえん💦
なんだか最初っから、死ぬことが身近にあった時代だったのね。

こうゆう時代を生き抜いた経験をした人にとったら今は平和だろうねぇ。

過酷な少年期が精神力が鍛えられたんだろうな。
猪木の名言パート2

前も猪木の名言紹介したので、なるべくかぶらないように紹介します!

・・・説得力があるな。
猪木は根っからの挑戦者だったんだな。

アドバルーンをあげるか・・・。
最近みないな。アドバルーン。

ぴえん。猪木さんは同期に209㎝でもとプロ野球選手のジャイアント馬場がいたものね。
エリート馬場にたいしての努力の鬼の猪木さんよね。

努力か・・・。
おれもそろそろ禁煙すっかなぁ~

マイルド。アンタまだ禁煙してなかったのか💦

お前だって電子タバコ吸ってんだろww
猪木は最後まですごかった!アントニオ猪木「最後の闘魂」チャンネル
2020年の春ごろから猪木は、自分の弱っていく姿を惜しみなくYoutubeで発信されました。
正直「いつ死んでもおかしくない」状況がなんどもありました。

あの猪木でも、こんなに弱よわしい姿になるんだってビックリしてました。
いつまでも猪木は特別で「普通のおじいちゃん」じゃないって思ってたので・・・

・・・ホント信じられないよな。
どうしても元気な姿の猪木を覚えてるから💦

人生も最後まで戦いなのね。ぴえん💦
まとめ

いやぁ どうしても、しめっぽくなるから猪木のBlu-rayBOXのリンク貼っとくね!

お・おん💦

むかし買ったビデオの「アントニオ猪木名勝負10番」みようとおもったけど、VHSが壊れてたのよ。

VHSなんて私みたことないわ💦 ぴえん(´;ω;`)

とゆうことで最後は「炎のファイター」でお別れだ!
ありがとー!!
これっマジ!
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